“ボキャブラ芸人”金谷ヒデユキの今。昔の自分は「尖っていたと思う」 (出典:週刊SPA!) |
|
寺西ジャジューカ
番組終了からかれこれ20年以上が経過した、伝説の『ボキャブラ天国』(フジテレビ系)。当時、“キャブラー”と呼ばれた芸人たちはテレビ、舞台、他ジャンル、はたまた芸能界以外の場所で現在も活躍中だ。
日刊SPA!では、ブームの渦中にいた芸人から『ボキャブラ天国』での忘れられない思い出、糧になった経験などを聞いていき、同番組が果たした功績を改めて振り返りたいと考えている。
当時、同番組で“地獄のスナフキン”と呼ばれた金谷ヒデユキ氏には紆余曲折があったらしい。特に、ブームが去って現在に至るまでの日々が激動だった。
インタビュー前編では主にブーム以前やブームの最中での出来事について語ってくれたが、後編では主に番組が終了して現在に至るまでの日々についてを明かしてくれている。
金谷ヒデユキを支えたのは、『ボキャブラ天国』で得た一つの気付きと教訓。20年前は尖った印象のあった金谷が優しい口調で明かしてくれた経験談を、ぜひ読んでほしい。
ボキャブラブームの頃も四畳半に住んでいた
――当時のボキャブラ芸人の羽振りの良さは、伝説でよく聞きます。高い服を着て、いい車に乗って。金谷さんも当時は、羽振りのいい生活をされていたんですか?
金谷ヒデユキ(以下、金谷):僕は、全然ないです。金銭欲とか物欲がないわけじゃないですけど、「あったらあったで安心」ぐらいの感じなので。収入が増えても収入がなくなっても、生活はずっと変わらないです。それこそ『ボキャブラ天国』に出ている頃も、住んでる部屋は四畳半とかだったんじゃないかな。
――四畳半!? だって、当時の金谷さんは年収すごかったですよね? たぶん、何千万いってるぐらいだと思います。
金谷:う~ん、よくわかんないんですよね。頓着があんまりなくて、「今日は金がない」「今日はいっぱいある」くらいの感覚なので。まあ、それもいけないんですけど(笑)。
当時の事務所の取り分は「7:3」
――当時の金谷さんは、人力舎所属でした。人力舎は芸人に優しい事務所というイメージがあります。
金谷:うん、そうでしたね。僕が入ったときのお金の取り分は7:3。芸人が7で事務所が3です。たぶん、芸人にとっては一番いい取り分の事務所ですよ。
――7:3!
金谷:いろいろ他の事務所からも聞いたんですけど、ホリプロとかほとんどの事務所は5:5とか。で、吉本が1:9とか。で、人力舎が一番良かったので「じゃあ、そこにしましょう」みたいな感じです。
――でも、四畳半に住んでたんですか?
金谷:はい、居心地がいいから。
芸人をやめるときに太田光から言われたのは…
――ボキャブラの最終回(正式には『家族そろってボキャブラ天国』の最終回)で金谷さんは1位を獲り、そこからミュージシャンとしての活動に専念し始めました。つまり、お笑い芸人を引退された。音楽に専念しようと思ったきっかけはなんだったんですか?
金谷:それは、いろんな人の替え歌をやったり、勉強のためにいろんな人の音楽を聴いてるうちに「俺のほうがいい曲作れるな」と思ったからです。「じゃあ、音楽をやってみよう」と考え始めて、「やるんならちゃんとやらないと、お笑いをやってる人にも音楽をやってる人にも失礼だな」と思って。
でも、それはあまり誰も望んでなかったみたいです(苦笑)。芸人仲間からも音楽仲間からも「そんなの両方やりゃあいいじゃん」と言われたし、そこも純粋さを貫きすぎて自分本位だったな……とは思いますね。
――芸人仲間では、誰から引き止められたんですか?
金谷:僕が「芸人やめて音楽やる」って言ったとき、爆笑問題の太田光が「バーカ、バーカ!」って言ってきて。「お前、音楽なんかやったって売れるはずねえじゃねえか」、「やめんなよ、バーカ! お笑い続けろよ」ということを言ってくれて。
――そうした制止を振り切り、金谷さんは音楽活動に専念していきます。その頃は、具体的にどういう活動をされていたんですか?
金谷:どうやって音楽を始めればいいかよくわからないから、CDを作って、全国ストリートライブをして、集まってきたギャラリーの方にCDを手売りして回ってました。
「そこそこいい曲」だったからこそ…
https://nikkan-spa.jp/1941668/2
続きを読む
Source: 注目トピックスch